現代人は、気づかぬうちに貧しくなっている

——新品に買い換えられることが、本当に豊かなのか


買い換えるか、直すか

梅雨の最中、傘の調子が悪くなった。傘を閉じるときに骨に合わせて生地も畳まれるのだが、全く違う生き物のように畳まれてくれない。よく見ると、傘の内側の骨と生地をつなぐ糸(中綴じ)が切れてしまっていた。

こういった時、みんなはどうするのだろうか。迷わず捨てるだろうか…

しかし、この傘は5,000円もかかった折りたたみ傘だったので今回、YouTubeで動画を見ながら自分で修理してみた。すごく下手くそであったが。糸と針と時間をかけて直した。

出来栄えは悪かったが、修理が終わった時に不思議な満足感があり、新品を買った時とは、少し違う感覚だった。

その時にふと思った。 ——豊かさとは何か…

この機会に考えてみようと思う。


1.管理者の意見

結論から言います。

豊かさとは、自分の基準で選択できることではないでしょうか。 買い換えることも、修理することも、それ自体に優劣はありません。問題は、その選択が「自分の意志」によるものか、「社会が用意した基準」に従ったものかという点にあるように思います。

買い換えることを疑わない人は、消費社会の価値観をそのまま自分の豊かさの定義にしている可能性があります。そしてそれは、静かな貧しさの一形態ではないかと思うのです。


2.理由と前提

「新品=良いもの」「古いもの=劣化したもの」——この図式は、いつ頃から当たり前になったのでしょうか。

高度経済成長期以降、日本は大量生産・大量消費の時代を歩んできました。物が溢れ、買い換えることが「生活水準の向上」と同義になっていきました。広告は常に新しさを売り、古いものを持つことは「遅れている」印象さえ与えるようになりました。

しかし、ここで立ち止まって考えてみたいのです。

近年では「お金で時間を買う」ことが提唱されている界隈があります。これは本当に豊かさの証明でしょうか。この言葉の背景には、仕事や家事や育児で忙しいし、時間に余裕がないから買い換える——それは「時間をお金で買っている」とも言えますが、見方を変えれば「時間という豊かさを失っている」とも言えます。

※時間をお金で買うことを否定するものではありません。素晴らしい考えだと思います。


3.反対が正と考えてみる

ここで逆の立場で考えてみます。「買い換えることこそ豊かさだ」という主張にも、十分な合理性があります。

時間は有限です。修理に費やす時間をほかのことに使えるなら、そちらの方が豊かな場合もあります。また、現代の製品は修理よりも買い換えた方がコストが低いケースも珍しくありません。

さらに言えば、「修理する豊かさ」もまた、近年メディアが作り上げたイメージという側面があります。「丁寧な暮らし」「サステナブル」——その言葉に乗せられて修理を選ぶのであれば、消費社会の価値観に従うのと構造的には変わりません。どちらの基準も、外から与えられたものだからです。


4.一般的見解ではどうなるか

SDGsの普及以降、「物を長く使う」「修理して使う」という行為は社会的な評価を高めています。リペアカフェの広がりや、衣類のリメイク文化など、修理を肯定的に捉える動きは確かに存在します。日本においても、「もったいない」と言う言葉があるくらい、物を直して使う文化は昔から存在しています。

一方で、スマートフォンをはじめとした現代の製品は、そもそも専門業者しか修理できない設計になっているものも多いのも事実です。これでは自分で修理するという選択肢がなくなってしまい、いずれは「買い替える」選択肢以外が浮かばない状態になってしまいます。

マクロで考えた場合、こうした矛盾を感じてしまいます。社会全体が「使い捨て」を前提にしながら、表層では「大切に使おう」と語る——この矛盾は、豊かさの定義が社会の中でいかに揺れているかを示しています。

結局のところ、「どちらが正しいか」という問いに、社会はまだ答えを出せていません。


5.まとめ

買い換えることも、修理することも、それ自体は豊かさの証明にはなりません。

問題は、その選択の根拠がどこにあるか、です。

消費社会が「新品を買え」と言うから買い換える。サステナブルの文脈が「修理せよ」と言うから直す。どちらも、豊かさの定義を外側に委ねているという点では同じです。

本当の貧しさとは、お金がないことではなく、自分の基準を持てないこと選択する余裕がないことではないでしょうか。

壊れた傘を前に、捨てるか直すかを「自分の軸」で決められる人。その静かな判断の中にこそ、豊かさの輪郭があるような気がします。

あなたが最後に何かを「自分の意志で決めた」のは、いつでしょうか。

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